いつどこでその名前を耳にしたのかはわかりませんが、鉄オタでもない私が「余部鉄橋」というものをどうしても見に行きたくなり、自転車で沖縄へ行く途中にその余部鉄橋に向かったのです。
余部鉄橋(あまるべてっきょう、と読みます)とは、兵庫県美方郡香美町香住区余部に位置し、山陰本線の鎧駅 – 餘部駅間にある橋梁のこと。
なお、今回は情報の多くをウィキペディアの「余部橋梁」から参照していることを先に断っておきます。もともとそんなに鉄道に詳しくないものでして・・・。
もし鉄道に詳しい人がこのブログを見ても、ここが違うとかそこがおかしいとかあまりツッコまずに穏やかなココロでさらっと流してくれますようにお願いします。
実は余部鉄橋は色々と呼び方があるのですが、ここでは便宜上、初代を余部鉄橋、2代目を余部橋梁と呼ぶことにいたします。
そうなんです、一度建て直しが行われ、現在は2代目であり、そちらはコンクリート製であるので「鉄橋」とは呼べないため、橋梁として区別します。
色々と詳しく説明しても見たことがないとイメージがつかみにくいと思うので、まずは初代余部鉄橋の在りし日の姿を見てください。
文章の情報は他から得たものでも写真は全て私が撮ったものですので。
こんな感じです。山の谷間をつなぐようにして鉄橋がかかり、その上を線路が走っているわけです。その向こうは日本海。
これが余部鉄橋です。自転車をゼエゼエハアハアと息も絶え絶えこいできてやっと余部鉄橋を遠くから見た時のこの私の感動わかっていただけるかしら。
また後で詳しく見ていきますが、少し近づいてみましょう。
鉄橋の手前に見える白い建物は小学校か何かでしょうか、この三階建ての建物ですら鉄橋の半分以下という事は鉄橋はビル6~7階に相当する高さだと思って良さそうです。
そこを電車が走るってんだから鉄オタでなくてもロマンを感じてしまう。
え?なぜ地面に線路を引かないかって?そうですか、そう疑問に思うのも当然です。
その答えは実際に近畿地方の日本海側から山陰地方へできるだけ海に沿って車などで通ってみたらわかります。
険しい坂の連続でとてもじゃないけど地面にまっすぐ線路を引くなんてできません。
ちなみに私はそこを自転車で走りましたが、本当にもう海に近い地域の道路はグネグネ曲がっていてアップダウンばっかりで、マジでしんどかったです。
海沿いなら砂浜みたいな感じで楽だろうととなぜか最初勘違いしていた自分を説教してやりたい。もし海沿いってのがどこも砂浜みたいなとこなら日本はビーチばっかりになってしまう。
実際は山陰地方の海沿いは断崖絶壁ばかりなのです。
そんな訳で余部鉄橋は工事が進められていきました。この頃は近畿地方と山陰地方とを結ぶ物資の輸送は主に船舶での輸送に頼っていました。しかしそれだと当然時間がかかります。しかし余部鉄橋に完成に伴い鉄道での物資の輸送が可能になり、人と物の移動が格段に便利になったのです。
次に初代余部鉄橋の生い立ちを確認しておきましょう。
計画と地質調査が始まったのがなんと1909年!第一次世界大戦よりも前のことなんです。基礎工事だけでおよそ2年の月日がかかり、巨額の工費と25万人を超える人員が費やされ1912年についに完成しました。
先ほども言及したように、物資の輸送が船舶から鉄道にシフトした事で、運輸の利便性が上がったり観光産業などが盛んになったりなどのプラス面はありましたが、逆に都市部に簡単に出稼ぎに行く事が可能になり、人工の流出というマイナス面もあったようです。
・・・すいません、少し取り乱しました。
とまぁこんな具合で非常にかっこよろしいのですよ。で、上の3枚のうち2枚目に鉄橋の下に何か建設中の柱のようなものが見えるかと思いますが、これが2代目の余部橋梁の柱です。
私はどっかのテレビか何かのニュースで見たんでしょうねぇ、余部鉄橋が建て直されその姿がもう見れなくなると。それで何とか工事が終わる前のその姿を写真におさめたいと思ったのでしょう。
2代目の余部橋梁は2007年着工開始で2010年に完成ですから、私はその間に訪れたことになります。もうかなりの年月が経過しますね。正直言ってその時はこうやってブログで写真などを人様に見えるように公開する事になるなんて夢にも思いませんでしたよ。
とりあえず今回はこの辺で。次回も余部鉄橋についてご紹介します。
今はもう見る事ができない余部鉄橋②
今はもう見る事ができない余部鉄橋③
今はもう見る事ができない余部鉄橋④
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