あーもう腰が痛い…。と言う事で、今回も余部鉄橋の記事を。
余部鉄橋の詳細については前回の記事をご参照ください。
今はもう見る事ができない余部鉄橋①

巨額の施工費と25万人にも及ぶ人員の苦労によって、1912年に余部鉄橋は完成しました。今より100年以上も前の話です。
しかし橋というものは作って完成したらそれで終わり、ではありません。常に管理・修繕が必要になります。
特に余部鉄橋は日本海から吹きつける季節風と吹雪の為に完成してから3年後には既に塗装工事が進められ、5年後には腐食した部品の交換工事が始まりました。
第二次世界大戦中は物資や人手が不足したために終戦後は大規模な修繕が何年にもかけて施されたのです。

余部鉄橋を下から見上げてみました。この当時でもキレイに塗装が施されています。なぜ塗装が必要かと言うと、錆を防ぐためです。
日本海から吹きつける海水を含む風は鉄を早く劣化・腐食させるため、異常をすぐに発見して修繕できるように管理していました。


澄み切った青空に真っ直ぐに伸びる日本の技術と安全への願い。

しかし、時として技術や安全に万全を期していても事故は起きてしまいます。
まず日常的に起きるデメリットとして、線路からの落下物。
下の写真を見てください。

本当に線路の真下に民家が立ち並んでいます。この上を列車が走るわけです、振動で線路から砂利・塗装のはがれ・部品・ゴミ・つらら・最悪の場合身投げをする自殺者までが落ちてくる。
様々な落下物に不安を抱えながら日常生活を送らなければならなかったのです。
さらに不安の種は落下物だけではありませんでした。列車が通過する際の衝撃です。
日本海からの風の中を切り裂くようにして列車が走るのです、その影響で民家の方に突風が吹いてきて窓が割れることもありました。
そのせいかどうかは定かではありませんが、上の写真の家の窓をよく見ると2階の窓にガムテープで補修した痕があります。
橋からの落下物と列車が通過する時の衝撃、このような理由から余部鉄橋を好ましく思っていなかった住民の方々がいたことも忘れてはなりません。

そして、ついに最悪の事態が起こってしまうのです。
1986年12月28日13時25分、香住駅から浜坂駅へ向かう8両編成「みやび」が日本海からの突風にあおられ、橋の下に落下する大惨事が起きてしまったのです。
「みやび」は橋の下にあった水産加工工場と民家を直撃。たまたま回送だったために乗客はいなかったものの、工場の従業員と車掌の計6名が亡くなり、他6名が重傷。
この時、しばしば風速25m/s以上をしめす警報が出ていたのだが、駅と列車の連絡手段が現代のように迅速にできるものでなかったのもあり、橋に進入する列車に風速の伝達が間に合わなかったとみられている。
その後の事故調査委員会の調査で、当時35~45m/s程の突風が吹いて車両の転覆限界風速を越えたのではないかと言われています。
鉄橋の下には今でも慰霊碑があります。

余部鉄橋を斜め下から。機能美とでも言うのでしょうか、必要最低限の鉄骨でできています。それにしてもこの高さから列車が落ちてきたら、もしくは自分が列車の中に乗っていたらと思うとゾッとします。

ぎゃーっ!また電車きたーっ!

うおーっ!999やー!銀河鉄道999やー!メーテルー!

すいません、ちょっと取り乱しました。
次回は、実際に電車に乗って、隣の駅までショートトリップしてみましょう。




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今はもう見る事ができない余部鉄橋①
今はもう見る事ができない余部鉄橋③
今はもう見る事ができない余部鉄橋④
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