それでは、昭和新山と三松正夫の記事第二回目です。
麦畑が火山に・・・昭和新山と三松正夫①

第二次世界大戦中の1944年に北海道有珠郡壮瞥町で、有珠山の麓が噴火し、元々はただの麦畑だった場所に新たに山ができた、それが昭和新山です。
そしてその山が新たにできる様を記録した人物、それが壮瞥町で郵便局長をされていた三松正夫さん。

三松正夫さんは昭和新山ができる以前に有珠山が噴火した際に調査に訪れた火山学者を案内したのをきっかけに火山の魅力に憑りつかれていきました。

壮瞥町にある三松正夫記念館ではどのように観測をしていたか、写真や器具などと共に展示されています。

まずは下の写真をご覧ください。1943年に撮影された有珠山の麓の様子です。

ドンコロ山という丘があり、手前には畑が広がっています。

しかし次の写真を見てみると・・・。
ドンコロ山の端から急に地面が盛り上がってしまい、その奥には有珠山に迫ろうかというほどの高さになった昭和新山があります。
写真には撮影日時は記されていませんが、昭和新山誕生直後と書かれているので1945年頃だと推測されます。

噴火の影響で溶岩ドームが形成され、昭和新山となったのです。
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噴火の様子を三松正夫さんが絵に描き残しています。

絵には「昭和新山1次大爆発 1944.6月23日午前8時15分より11時35分迄」とかなり詳細に時間が計測され、噴火の凄まじさが描かれている。
右横に有珠山の山頂があり、その山頂を軽く越して噴火が起こっていたことがわかります。
ていうか絵うまっ!

こちらも同じように噴火の様子が。にしても噴火が自分の家の近くで起こったとして、その時間を冷静に計測して記録しておくなんて普通できます?

昭和新山と三松正夫の因縁はこんなところにも。

噴火により三松家が壊れてしまい、降り続ける火山灰を傘でしのぎながら立つ三松正夫。
時はまだ第二次世界大戦中の1944年。世間はそれどころではなく、噴火の報道はされなかったといいます。
しかも現代とは違ってカメラなんて誰もが持っているわけではないのにこんな写真が残っているとは。

最初の噴火が1944年の6月23日に起こり、最後の噴火が同年10月30日。噴火回数は17回にも及びます。その後は溶岩ドームの形成で地面が盛り上がり、全ての活動が終わるのは1945年の9月20日。
それまで三松正夫さんはこのように付近を歩き回りながら観測を続けていました。

降り積もる火山灰はそのまま層になり、そこに噴火の勢いで岩石が飛んできて落ち、まるで地面は月のクレーターのように。

加工付近で立ち上る噴煙の中を歩いて観測する三松正夫。
白い噴煙に対し、黒いシルエットとなった三松正夫さんがとてもカッコイイ。

これなんて微笑ましい。
観測の途中で吹き出す地熱を利用してクッキング。
噴火で家を失いながらも、まるで自分の子供の成長を楽しむかのようにそばで見守りながら慈しむ姿があります。

噴火の時の実際の写真。
噴煙の高さから恐ろしいほどの勢いがわかります。

そして三松正夫さんの最大の功績はその記録の仕方にあります。
普通であればただ噴火をすげぇとかやべぇとか思いながら見たりするだけ。できてもカメラで撮影するとか文章で書き残すとかでしょう。
三松正夫さんは定点観測を使って自己流で記録していったのです。そこが普通じゃない。
私が聞いたやり方は、台に顎をのせて、窓などに張った何本かの糸を基準にして山の稜線を記録していったというもの。
日々それを繰り返して記録していき、重ね合わせればどれだけの勢いでどれくらいの高さになっていったかがわかると。
この観測記録は海外でも高く評価され、「ミマツ・ダイアグラム」として名付けられています。

50を過ぎてから火山との関わりができ、89歳で生涯を終えるまでずっと昭和新山と共に生きた三松正夫。
彼のおかげでいま私達は一つの火山が生まれていく過程を知ることができます。
地球の一部と深い関わりを持てる人間なんてほとんどいないなかで、他人にはできない半生をおくれた三松正夫さんは幸せだったのかもしれません。

それにしても人生ってのは何が起こるかわかりませんねほんとに。
きっと地球は気が遠くなる程の長ーーーーーい年月をかけてこうして山ができたり崩れたり海ができたり干上がったりして変化しながら現在の姿になっているのですね。
1億年後にはきっと大陸の形はまったく別物になっているのでしょう。


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