物心がついた時から私の家には常に犬がいた。
自分が覚えている最初の方の記憶を思い出そうとすると、家の軒下に生まれた5~6匹の子犬がわきゃわきゃと動き回る姿に興奮している自分がよみがえる。

そしていつも次に思い浮かぶ記憶は、子犬たちを産んだお母さん犬が棺の中でたくさんの花に囲まれながら静かに横たわっている姿だ。

私が中学生になった頃でもまだ5匹程の犬がいたが、ちょっとした家の事情で我が家の犬たちは冷遇されていた。
家族の雰囲気の中で、犬たちの存在感と犬の世話をするって意識が希薄になっていってしまったのだ。
今思えば、原因は家長である父が実は元々犬嫌いだったことにあった。
5匹の犬たちは金網で仕切られたわずかなスペースに閉じ込められ、散歩に連れて行くものは誰一人おらず、ご飯は残飯だった。

当時私もその雰囲気に流されていて、犬の世話は特にしなくていいものなんだと何となく思ってしまっていた。
小学生の頃は犬と遊んだりしていたが、中学生になった頃には友達が優先で、犬の世話などは一切しなくなっていった。

ある日、驚く事に、5匹のうち2匹は金網の一部を破ってすり抜けて夜逃げしていた。
しかしそれでも家族の誰も過ちに気づいて残った3匹の世話をちゃんとしようと意識を変える者はいなかった。

しばらくして1匹亡くなり、また1匹と亡くなっていき、残ったのは1匹となった。
最後の1匹はエスという名前だった。
エスは雑種で体格は小柄だった。
誰も散歩に連れて行ってくれないのでよく金網の中を円を描くように走り回っていた。

そしてまたある日。ついにエスも夜逃げしてしまった。
金網の中には小汚い犬小屋と、エスが走り回ってついた円状の跡が地面に残っていた。

5匹いたうち、3匹もが夜逃げした。

きちんと愛情をもって世話していれば、むしろ帰巣本能により遠くに捨てられても戻ってくるはずなのに。
余程我が家で飼われているのが辛かったのだろう。
・・・逃げ出すほど。

私はやっと自分達の犯した罪深さに気づいた。
エスたちには本当に申し訳ない事をしてしまった。
あぁ。もう取り返しがつかない。

目を閉じれば思い出す。
ある時、エスが突然の稲光と落雷の大きな音に怯えてキャンキャン吠えて震えていた時の事を。
私は庭に出て、エスの首に腕をまわし頭をなでてやった。するとエスはちょっと安心したのか吠えるのを止めた。
再び雷の音が鳴り響いた時、エスは私の腕からひゅるっと首をひっこぬき、またキャンキャン吠えながら走り回った。
私はその時何となく姿勢を変えずに腕もそのままでエスの様子をうかがっていた。
そしたらエスは私が伸ばしたままにしている腕の中にひゅるっと首を差し込んで戻ってきた。
なんてかわいい奴なんだと、普段全然世話をしない私に対してとってくれたエスの親愛の行動に感動した。

あぁ。でももう取り返しがつかない。
私は私の家族を非難などできるはずもない。世話をしなかった私ももちろん同罪だ。

いつか、もしいつか将来自分が犬を飼う事があるのなら、その時こそは罪滅ぼしの意味も含めてきちんと愛情をもって世話して接していこう。
そう思った。

時と場所が変わり、2012年カンボジア。すっかり大人になった私はバックパッカー旅をしていてカンボジアのシェムリアップという町にいた。
シェムリアップはカンボジアで最も有名なアンコール・ワットの観光の拠点となる町で、日本人バックパッカーには有名なクロマーヤマトゲストハウスという宿がある。
日本人経営で、日本食メニューがあるレストランが併設されていてマンガがたくさんあるのが人気の理由だ。
私はシェムリアップに着いて数日は別の宿に泊まって、クロマーヤマトゲストハウスに移ってきた。
部屋は1階にある4人ドミトリーで、2段ベッドが2つ並んでいる下のベッド。
料金は安いし、他のゲストは日本人ばかりだし、マンガはあるし、まったく文句ない。

一つ気になったのは、ドミトリーの出入口前のスペースには柱があって、そこに黒いミニチュアダックスフンドと思われる子犬がつながれていていっつも吠えていた事だった。
どうやら、ここでは犬をペットとして飼っているのだが、前の犬が先日亡くなってしまい、新しくこのミニチュアダックスフンドが私がチェックインしたのと同じ日に宿にやってきたようだった。
そうか、子犬がいきなり見知らぬ場所に連れてこられたので不安でキャンキャン吠えていたのか。

ミニチュアダックスフンドを触ろうと手を伸ばすと、まだ人間に慣れていなくて警戒して噛んだりしてくる。
けどまだ歯が鋭くないし力も弱いので痛くない。めっちゃかわいい!

普段、犬に触れられる機会なんて無いので私はこのミニチュアダックスフンドをかまうのが大好きで、観光なんてほったらかしにしてだいたい宿で過ごしていた。
しかも、犬と遊ぶ時は必ず自分が近づく前に指を何回かパチンと鳴らしてからにした。
指をパチンと鳴らすのはお前と遊ぼうとする合図なんだよとミニチュアダックスフンドに刷り込もうとしたのだ。勝手に。自分の犬じゃないのに。
何回もそれを繰り返しているうちに、一週間もした頃には、2階のテラスから指をパチンと鳴らすとミニチュアダックスフンドが反応して辺りを見回して私を見つけ出そうとするぐらいになってくれて嬉しかった。自分の犬じゃないのに。

でも、いくらそうやって構ってやってもまだ子犬のミニチュアダックスフンドが寂しくないはずがなかった。
夜になると、何時間でもキャンキャン吠え続けるのだ。真っ暗な中で。
私がいたドミトリーはミニチュアダックスフンドがつながれていた柱のすぐ目の前だったので、鳴き声がよく聞こえた。
鳴き声で目が覚めた時は、その鳴き声がいたたまれないのでベッドからでてミニチュアダックスフンドを抱えて頭を撫でてやるようにした。
ミニチュアダックスフンドが安心して眠りそうになったらそっと地面に寝かせて自分もベッドに戻った。

ある夜、ベッドで寝ていると、またミニチュアダックスフンドがキャンキャン吠えている声が聞こえた。
また今夜も吠えてるのか。
あれ?でもちょっと待てよ。なんか声がすごく近い。すごーく近い。まるですぐ耳元で吠えているような・・・。
目を開けると、本当に私の耳元にミニチュアダックスフンドがいた。小さな身体を伸ばしてベッドに前足をかけ、私を見てハッハッと舌を出している。めちゃくちゃ驚いた。
緩めに締められていた首輪からなんとか頭を抜いて、ドアが閉まっていなかったドミトリーの中に入り込んで来たのだろう。
私は、ミニチュアダックスフンドがいつもエサをくれる宿の従業員ではなく、他のゲストでもなく、自分を頼って選んで来てくれた事がとっても嬉しかった。

朝になったら犬がいなくなったと騒ぎになるかもしれないからまた柱につないだ方がいいのはわかっていた。
けど本当に嬉しくて、ミニチュアダックスフンドが甲斐甲斐しくてかわいかったのでこのまま一緒に寝ることにした。

両腕を伸ばしミニチュアダックスフンドを抱きかかえるとそのままベッドに寝かせた。
ミニチュアダックスフンドを脇に抱えて頭を撫でていると、むかし辛い目にあわせてしまったエスたちへの後悔の念がこみあげてきてふいに目から涙がこぼれた。
きちんと世話してなかったが為に夜逃げさせてしまった。エス、ごめん、本当にごめんよ。
それから今までずーっと、漠然と「犬」たちに対して申し訳なさを感じてきた。
それをいま腕の中にいるミニチュアダックスフンドが癒してくれた。
俺は、許してもらってもいいのだろうか。
少しぐっと強く抱きしめた。ありがとう、本当にありがとう。

心の穴が・・・と思いながら、涙を流しながら、いつしか私はまた眠りに落ちた。


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