ガンジス河沿いの街として、ヒンドゥー教の聖地の一つとして、バックパッカーが沈没する街としてなど、様々な理由でインドでもトップクラスに有名な街、バラナシ。

遠藤周作が「深い河」を書いたり、長渕剛が歌にしたり、その他たくさんの方々が既にあちこちでバラナシを様々な形で表現しているので、今さら私なんかがバラナシを語るのもおこがましいのですが、まぁ一応。

なお、昔のバラナシの様子に関しては、ねこぢるの「ぢるぢる旅行記 インド編」が大変面白い。

ぢるぢる旅行記 インド編【電子書籍】[ ねこぢる ]

価格:324円
(2018/4/20 16:16時点)
感想(0件)


混沌の一切が流れていく街 バラナシその2<ガートの風景>
混沌の一切が流れていく街 バラナシその3<ボートから眺めるガートの風景>
混沌の一切が流れていく街 バラナシその4<マニカルニカ・ガートという名の火葬場>
混沌の一切が流れていく街 バラナシその5<プージャ>
混沌の一切が流れていく街 バラナシその6<ガンジス河に昇る朝日>

私が初めてバラナシを訪れたのは、2001年の11月。アメリカでの同時多発テロがあった後だった。
色々あってバラナシに辿り着いた訳なのですが、その辺のくだりについては別の記事で詳しく述べましたので、良かったらどうぞ。
旅の一コマ <初めてのインド①>
旅の一コマ <初めてのインド②>
旅の一コマ <初めてのインド③>
旅の一コマ <初めてのインド④>


上記の記事を読むのがめんどくさいアナタの為に簡潔にまとめると、2001年にインドのデリーに着いてすぐ旅行会社に捕まってツアー組まされて毎日を不安に過ごして、やっとバラナシで解放されて日本人バックパッカーに会った時にそれまでの心細さの反動でつい泣いてしまった・・・という感じ。

見ず知らずの人に突然半泣きになりながら握手を求めるほどの精神状態で辿り着いたバラナシで、私はまるで旅行会社に捕まってた心細さを癒すかのように楽しく過ごした。
その時会って話して過ごした日本人のバックパッカー達との記憶は、今でも鮮明に残っている。

当時はまだSNSなど無い時代。
バックパッカー達が連絡を取る手段はE-mailだった。
仲良くなったら、自分のメモ帳やアドレス帳に名前とE-mailアドレスと日付と場所を書いてもらって連絡先を交換していた。
すると時々余白に「またどこかの空の下で会おう」などとソレっぽい一言を付け加えてあったりして、それがまた嬉しかったものだ。

バラナシはバックパッカー達が長く沈没(長期滞在)する地だったので、色んな人と知り合って仲良くなって、楽しく毎日を過ごしているうちにうっかり軽く一ヶ月ぐらい経ってしまうような土地だ。

今回から数回は、きっとたくさんのバックパッカー達にとって印象深い土地であろうバラナシを写真と共に少しご紹介。
ひとまず第一回はバラナシの道や町並みについて。

バラナシをバラナシたらしめているのは、何と言ってもガンジス河とガート。
ガンジス河は時期によって水かさが変わるので、水位の変化に対応できるように階段が河に沿って作られている。これがガートと呼ばれるもので、ガートはガンジス河の西側に6.4㎞にわたって続いている。


ガートの東側はどうかというと、こちらの川沿いにはガートはおろか建物は無い。不浄の地とされているためだ。
また、お祈りをしながら身体を清める事を沐浴というのだが、ガンジス河で沐浴する場合朝日に向かって水を清めるのが最も良いとされているので、沐浴をする人々はガンジス河の西側に立つ必要がある。そのためにガンジス河の西側に街が広がっているのだ。

街の作りそのものがお祈りの為にできている。こういうところ、インドってすごい。

ここはゴードリヤと呼ばれる交差点。常にたくさんの車やバイクやサイクルリキシャや人が往来している。


ゴードリヤを過ぎて直進するとダシャーシュワメード・ガートというガートにぶつかる。ここは夜になるとプージャという儀式が行われたりする主要なガートの一つだ。
しかし、安宿街に行くために、ダシャーシュワメード・ガートより手前を適当に右に曲がろう。どこからでも大丈夫。ガートからでも行けるけど。
狭くて薄暗い立体迷路のような路地を歩くと、ゲストハウスと書かれた看板があちこちに見つかるようになる。


私が2001年に訪れた時はフレンズゲストハウスという宿のドミトリーに泊まっていたのだけど、めちゃくちゃ楽しかった。帰国後、そこで会った友達と東京や大阪で数回集まって飲んだりしたのも良い思い出。

だが、2011年にバラナシを訪れた時にまたフレンズゲストハウスに行ってみたが、もう営業していないようだった。以前はあんなに日本人が泊まっていて活気があったドミトリーには南京錠がかけられており、オーナーが力なく首を振っていたのが悲しかった。

なので2011年は日本人宿としてトップクラスに有名なクミコゲストハウスのドミトリーに泊まった。そこでも面白い人達がいて、一緒に映画見に行ったりトランプしたりとても楽しかった。
ダラダラと長いこと滞在してるうちに、クミコさんにバナナとかの買い出しを頼まれるようになってしまった。

みんなで食材を買ってきて晩ごはん。(もしかしたら顔出されたくない友達もいるかもなので、あえてブレブレの写真を使っています)

クミコゲストハウスの屋上。
バラナシのガート周辺にある建物の多くには屋上がある。ここではバックパッカー達が洗濯物を干したりヨガをしたり酒でも飲みながら談笑したり。
塀に金網が張られているのは、泥棒対策ではなく、サル対策のため。この辺では野ザルがたくさんいて、洗濯物にイタズラしたり食べ物を取ろうとしたり非常に厄介なので金網が張られている。
そして、今はそうでもないかもしれないが、この頃バラナシにいるインド人のチビッコ達の中で凧が流行っていて、そこら中の屋上から凧を上げて遊んでいて、その為落ちた凧やら凧糸やらが建物の屋上や路地に転がっていた。
でも最近のチビッコ達はさすがに凧やってないかもなぁ。ゲームとかスマホとかで遊んでんのかな。

上の写真は2011年に撮った写真で、左奥がクミコさんの旦那さんのシャンティさん。日本語が達者で、気分が乗ると日本人に説法的な話をしてくる。
真ん中がクミコさん。クミコさんの腕にはとても可愛らしいお孫さんが。左下のサリーを着たインド人女性はクミコさんの息子さんの奥さん。
その隣に写ってるのは宿泊客で来てたカナダ人夫婦。
クミコさん、ごめんなさい。撮った写真使わさせてもらってます。

2014年に訪れた時もクミコゲストハウスに泊まったが、ドミトリーはガラガラだった。
バラナシに日本人バックパッカーには有名なサンタナゲストハウスという宿が進出してきたからだ。

サンタナゲストハウスとは、元々はプリーという別の町にあったゲストハウスで、そのサービスから町よりも宿そのものが名所化してしまい、日本人バックパッカーに絶大な人気を誇る宿。

現在はプリーだけでなく、ここバラナシ、首都デリー、コルカナにも宿を展開している。
以前はネパールのポカラにもあったが、現在ポカラのサンタナは別のオーナーに変わり、名前はサンタナのままだがもう無関係となっている。

クミコさんは客足がすっかり減ったことを寂しがっていたし、私もかつての賑やかさがウソのようにガランとしたドミにいるのが寂しく感じた。前はベッドが足りなくて床で寝る程だったのに。

かつてはジョジョの奇妙な冒険でキャラクターのセリフの中にクミコさんの名前が出る程有名だった日本人宿クミコゲストハウス。もしその歴史を閉じることあらば、それは切ないが仕方がない。

時と共に物事は移り変わってしまう。

聖なる河ガンジスは、人々の祈りも遺灰も動物の死体も何もかもを受け入れて流れ続ける。

次回へ続きます。

にほんブログ村 旅行ブログ 旅日記・旅の思い出へ

混沌の一切が流れていく街 バラナシその2<ガートの風景>
混沌の一切が流れていく街 バラナシその3<ボートから眺めるガートの風景>
混沌の一切が流れていく街 バラナシその4<マニカルニカ・ガートという名の火葬場>
混沌の一切が流れていく街 バラナシその5<プージャ>
混沌の一切が流れていく街 バラナシその6<ガンジス河に昇る朝日>
旅の一コマ <初めてのインド①>
旅の一コマ <バラナシの物乞いとSIMカード>
旅写真ギャラリー <波打ち際でのウンコ>
トップページへ

こちらもどうぞ

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です